政宗記メモ



おじい2人来たのに一兄が来ない審神者です╰( ^o^)╮-=ニ= 、;'.資材
呪われし!相模!!81日目!!
wikiにもだいぶ詳細が上がってますが、調べた史料などの自分用メモ。







【燭台切光忠が秀吉から政宗へ下賜されるくだり】


小林清治校注『伊達史料集』(上)より 「政宗記」 巻9  p334-335

向島御建立の事

慶長元年丙申の二月より、太閤秀吉公、伏見の向島(むこうじま)に城を構へ、御本城より橋を渡し、往来ありて御慰所と取立給ひ、御普請過半出ける処に、頃は閏七月十二日の夜半許に、大地震夥しうして、天守を始め御殿共をゆり崩し、城内の男女五十余人家に打れて死しけるなり。惣じて此島は宇治川取廻し、地形窪かりければ、石垣をゆり普請小屋の者ども迄も、数多相果けるなり。然(しか)るに、彼島御再興有ても然(しか)有まじくとやおぼしけん、同七月二十日に、木幡山を城にと見立給ひ、諸大名衆は申に不ㇾ及、旗本或は小身・小人・中間・小者に至る迄、組をなされ大石くり石地形を引き、扨御殿面々様々請取の御普請にて、当十二月晦日を切に移し給ふべしと上意なれば、夜を日につひで急ぎ給へり。地震程危きことはあらじと宣ひ、御殿の柱も二本は礎、三本目は五尺余りに掘立、上の道具も方々かすがひにてとぢ付、日来の御作事には違ひ、今度は専ら地震御用心なり。然して御普請急ぎ給ふ故、日々に出御遊ばし、思召の外果敢行(はかゆき)たる役処へは御褒美の上意なれば、何れも忝きとの御ことなり。同十月、漸寒気の始め寒へて大儀なるに、風を防ぐために紙子を取せ給はんとて、長持へ御持せ町場を廻り給ひ、諸大名衆へ御手移しに下されけり。中にも政宗は至て物数寄(ものすき)なればとて、襟には紺地の金襴、袖は染物に摺箔、裾は青地の緞子、方々を別になされ拝領し給ふ。又呉服拝領の族(やから)もあり。されば、其頃政宗より、大坂御上下の召舟を仕立上られければ、御感の由にて、光忠の御腰物を拝領し給ひ、翌日秀吉公御普請場へ出御の砌彼御腰物さし、我役所の前にて御目見(おめみえ)し給ひければ、「昨日政宗に刀を盗まるゝなり、取返せ」と御諚にて、御小姓衆四五人取かゝりけるを、打払ひ十余間逃し給へば、「盗賊なれども御赦免なり、是へ参れ」と宣ひ、色々忝き上意どもなり。有とき又盆盒に御所柿を持せ給ひ、諸大名衆へ小手移しに下されけるに、「政宗は物数寄なれば、大なるを望み給はん」とて、盒(オリ)の中を御取返し、「是より大きなるはなきぞと」宣ひ、拝領し給ふ。近き役所の大名衆、各是を見給へ「遠国人にて、漸く四五ヶ年の奉公なれども、御前世に勝れ御懇ろ冥加人なり」との風聞なり。


翌日の盗人呼ばわりは秀吉の冗談だったのか、一度やったものの惜しくなったので
冗談に見せかけて取り返そうとしたのか判断がつきかねるなぁ。

この記述だけでは、燭台を斬った光忠のことかかどうかはわからないが、
伊達家の目録と照合すると、この時秀吉から下賜されたものが燭台切と呼ばれていた、ということになっているらしい。(そっちは未確認)
少なくともこの「政宗記」中には燭台を斬った、もしくはそれらしい記述は見当たらず。

成実の殿愛が炸裂してるいい文書だなあ。ラストのドヤ感!
(しかしこれを読むと全体的に美化されてんだろうなぁ・・・という気が。まあ家臣が書いた年代記なんかみんなそうだろうが)









【徳川秀忠・豊臣秀吉から拝領した刀剣のくだり】


小林清治校注『伊達史料集』(上)より 「政宗記」 巻11  p387-388

政宗物僻事

去ば常々物僻にて御坐す、尓程に数寄道をも、日来心掛給へり。其故に先茶湯の道具より申せば、碾茶壺(ひきちゃつぼ)、肩衝・桶口肩衝・侘助(わびすけ)肩衝・紹鷗文琳・壺物・大海・利休物相、茶入の名物ㇾ如此。扨(さて)虚堂墨跡、是は大相国秀忠公より拝領し給ふ、清拙墨跡、輝東陽墨跡、布袋(ほてい)痴絶賛、寒山十得痴絶の賛、定家の色紙、梅の画無極の賛。牧渓の画虚堂賛にて三幅対。是は都の町人勘兵衛と云けん者持けるを、掘出に黄金五百枚に取給ふ。扨碪の花入青磁なりしが、碪の太みに薬力かゝらで、一寸五分四方丸く焼切有て剰へ其中破たり。其破へ唐にて鉄を以て、かすがいを打ければ、水を持花入となり、天下の名物なるを、太閤秀吉公色々の仰立にて拝領し給ふ。家の宝物となるなり。破笠の香爐、其外数多雖ㇾ有ㇾ之一々不ㇾ及ㇾ記。扨又大小は、鎺(はば)き国行・来(らい)国光・宇佐美(うさみ)長光・二字国俊・守家・三原正家・大原真守・当麻包永(たいまかねなが)・守家・長光・貞宗・信国・一文字・保昌五郎・日理(わたり)古備前・来国光・正宗・左文字・大倶利伽羅広光、相国秀忠公より忠宗拝領し給ふ。脇差には別所貞宗・左安吉・太鼓磬貞宗・真長・鎬き来国光・国行・左文字・正宗・二字国俊・鎬き藤四郎吉光、是天下の名剣なりしを太閤秀吉公より拝領し給ふ。家の宝物となる也。

(後略)


物僻=ものずき。あることに熱中して嗜好のかたよること、との注あり。

忠宗(政宗の二男・嫡子)が秀忠より大倶利伽羅を拝領したとある。
光忠が「貞ちゃん」と呼ぶのはおそらくここで出てくる“太鼓磬貞宗” と思われる。
“磬” は書写者のミスか、翻刻のミスかは未確認。
ここの段では記録日・拝領した日、どちらも記述はなし。

鎬藤四郎もそのうち実装されるかな?





〔参照資料〕

小林清治校注 「伊達史料集」上 (戦国史料叢書10)
人物往来社, 昭和42年1月発行

※底本は宮城県立図書館所蔵『政宗記』
  http://www.library.pref.miyagi.jp/wo/opc_srh/srh_detail/D56977

 同館所蔵『成実記』および『仙台叢書』本(第3巻)により校訂とあり。


※そもそも宮城県立図書館には『政宗記』と『成実記』(仙台叢書本とは別)という、同じ内容の写本が2種類あるよヤッホー!


※成実が著した政宗の記録は写本が何パターンもあり、底本によって内容に細かい異同がある。
巻1~8、巻9の前半部分は『伊達日記(伊達成美記)』の名称の別バージョンあり。
群書類従に所収のものはこっち。

近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783
  (コマ番号127~, 光忠の記載はコマ174)



※『政宗記』の成立年代は各巻の奥付より寛永13~19年(1636-1642)前後とみられる。『治家記録』との異同から、『治家記録』編纂の元禄16年(1703)には成立していたことだけは確実。






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