「『武庫刀纂』に描かれた水戸徳川家の名刀」レポ




5月17日に徳川ミュージアムで開催された、
国際博物館の日記念 ミュージアムトーク
『武庫刀纂』に描かれた水戸徳川家の名刀」レポです。

わたしが参加したのは9:30~10:30の、朝一番の回。
追加募集のあった回を含め、一日で計3回の開催だったようですが
Twitterの他の参加者さんの呟きを見ていると、学芸員の方のコメントなども
回によってちょっとずつ違うみたいですね。
メモと記憶に基づいてなるべく正確に書き起こしたつもりですが
聞き違い・勘違い等あるかもしれません。ご了承ください。

徳川ミュージアム:http://tokugawa.gr.jp/index.html
徳川ミュージアムのブログ:http://ameblo.jp/tokugawamuseum/



【学芸員・渡邉さんの御挨拶・注意事項等】


会場は40~50人ほどが入ると満員の、会議室?のような感じの部屋。
前方に壇があり、壇上には白い布に覆われた机。さらにその上から葵の紋が入った緑の布がかけてある。左手の端にはプロジェクター。
徳川ミュージアムの学芸員・渡邉さんより、開始前の挨拶と注意事項等の説明。


・トークイベント中の撮影・録音は禁止、ただしトーク後に撮影時間を設ける。
(参加者からどよめきが)
・今回の現物展示、写真撮影およびSNS公開について水戸徳川家の現ご当主から許可を得ている。(参加者より拍手)
・国際博物館の日とは何か。今回のトークイベントおよび限定公開について。
・今年は家康公の死後400年に当たり、ちょうど本日、日光東照宮で家康公を祀る式年大祭が行われている。
・「燭台切光忠」を公開していなかったのは所蔵品の状態が悪いから、というわけではないことを最初にお断りしておく。
・急遽展示を決定したのは、記念すべき日に、所蔵品に対して大変興味を持っていただいている方々に一番に見ていただきたかったから。


ここで学芸員渡邉さんから、研究員の堀さんに交代。
プロジェクターで資料や画像を映しながら説明してくださいました。


【水戸徳川家について】

・「水戸黄門」のモデルである、二代目当主・水戸光圀公が特に有名。
・家康公の九男・十男・十一男がそれぞれ当主となったいわゆる徳川御三家のうち、
十一男・頼房を初代当主とするのが水戸徳川家である。



【『武庫刀纂』の成立について】

・『武庫刀纂』は水戸徳川家所蔵の刀剣類を記した目録であり、目録1巻、本編15巻、附録8巻からなる。
 ・文政6年(1823年)に水戸徳川家の8代目当主・斉脩(なりのぶ)が書工8名に命じて水戸徳川家所蔵の刀剣408本について精巧な模写・作成を命じた。
・刀剣の生産地別に分類されており、刀剣の押型(模写)、部分ごとの長さや由来、買値(購入したものの場合)などが記されている。



【なぜ斉脩は『武庫刀纂』の作成を命じたのか?】

・ 8代目当主・徳川斉脩は弱冠二十歳で当主となった。歴史的知名度はあまりないが、文化事業に大変力を入れた人物である。
・『武庫刀纂』の序文の冒頭に「刀剣というのは国家・日本を守るために必要な、重要な道具である」とあり、また髭切・天叢雲剣・草薙の剣など『古事記』『日本書紀』からのエピソードを多数引用し、日本における刀剣の神性を強調している。
・当時(鎖国中)の時代背景として、異国船が海岸沖で頻繁に目撃されるようになり、幕府や諸大名が非常に危機感を持っていたという点が挙げられる。
・外国に侵略されるのではないか、という危機感により、軍備や国学(日本の伝統文化が侵略によって変容することを恐れた)に力を入れるようになった。
・以上のような時代背景が『武庫刀纂』の編纂につながったと思われる。




【児手柏(このてがしわ)について】

 ・細川幽斎がいつも戦場で持っていたとされている。その後家康に譲り、
家康は関ヶ原でこの児手柏を使用したといわれている。



【燭台切光忠について。『武庫刀纂』の記載】

 伝承によれば、仙台藩主・伊達政宗の近臣の一人が罪を犯し、燭台の陰に隠れていたところ、政宗がこれを燭台もろとも斬り倒した。そこからこの刀を「燭台切」と呼ぶようになった。
 その後、光圀が政宗の邸宅にて政宗から刀を身近に置きながら「燭台切」の由来を語り聞かされた。光圀はこの刀を欲しがり、政宗は「お気に入りの品だから」と一度は断るも、(最終的に)譲ってもらえた。

※『武庫刀纂』の燭台切光忠の記載についてはこちらにまとめました。



【燭台切光忠の持ち主の変遷】
 
・織田信長→豊臣秀吉→伊達政宗→光圀という説があるが、信長→秀吉のルートに関しては、調べられる限り、確かな資料は存在しない。
・秀吉→政宗のルートについては伊達家側の資料もあるが、この「燭台切光忠」を指すのかは微妙なところ
(※この件に関しては、後で個人的に堀さんに質問しました。後述)



【政宗から譲り受けたのは光圀か?頼房か?】

・「政宗から燭台切光忠を譲り受けたのは光圀ではなく、父の頼房のほうでは?」という問い合わせは多数受けている。
・あくまで個人の見解ですが、と前置きがあり、水戸徳川家と仙台伊達家の交流の歴史からの検証。
・プロジェクターに、水戸徳川家と仙台伊達家が交流した記録一覧が表示される。(字が小さくて、ちょっと詳細が確認できず)
・歴史資料から確認できる徳川家と伊達家の交流の記録では、政宗が相手をしたのはすべて頼房である。
・例えば、元和6年(1620)に政宗と頼房が一緒に食事をした記録があるが、この時政宗は55歳、頼房は19歳である。ちなみに政宗と光圀の年齢差は63歳。
・ この年齢差を考えると、幼い男児が政宗と単独で会うとは考えづらいので、刀を譲り受けた相手としてはおそらく頼房のほうが相応しいのではないかと考えられる。
・頼房と政宗は手紙のやりとりや互いの家を行き来していたりして、大変仲が良かった。頼房から政宗に刀をあげたという記録もある。
・江戸時代の末には、光圀のほうが有名になったので、いつの間にかエピソードが頼房から光圀へすり替わったのではないか?



【関東大震災の被災について】

・明治期に、水戸徳川家は隅田川の通称・小梅御殿を本邸とした。武器庫(蔵)があり、燭台切光忠もそこに収められていた。
・大正12年に発生した関東大震災における火災により、小梅御殿は燃えたが武器庫(蔵)は無事だった。しかし、宝物が心配で慌てて開けてしまったのか、開けた時のバックドラフト現象によって所蔵品が蒸し焼きになってしまった。
(※この蒸し焼きという表現については少々語弊がある模様※ 
・ 蔵自体は無事であり、所蔵品は置かれている場所が決まっているので、その刀が「燭台切光忠」であることは特定出来る。



【水戸徳川家が守り続けてきた刀】

・焼刀となってしまい、美術品としての価値は失われてしまったが、『武庫刀纂』の序文にあるように刀剣とは日本を守るもの、という水戸徳川家の教えの通り、焼刀もずっと保存し続けてきた。
・戦時中の鉄供出命令も拒否。

(※実際、企画展「家康公と御三家展」でも関東大震災で被災した他の焼刀が展示されていました。光圀が家臣・藤井紋太夫を手打ちにしたとされる銘国光の脇差でした)



堀さんのお話はここまで。ふたたび渡邉さんに交代し、いよいよ児手柏と燭台切光忠のお披露目が・・・・!!



【児手柏・燭台切光忠の現物展示・撮影】

・学芸員・渡邉さんより、「ひとつの所蔵品に対して、これほど多くのご意見や問い合わせを受けたことは初めてで、大変驚き、また嬉しく思っている。展示に関してみなさんのご意見を頂戴したい」とのことで、挙手によるアンケート。
・「今後も燭台切光忠を展示したほうがよいと思う方」に参加者全員挙手。
・水戸徳川家の現ご当主から写真撮影、またTwitter等のSNSで写真を公開する許可をいただいている。いろんなご意見やお考えがあるのと思うので、SNS公開については皆さんの判断に委ねる、と渡邉さん。
・柄の辺りが金色なのは、ハバキ(刀身が鞘から抜け落ちるのを防ぐ・固定するためにつける金具)が溶けたものが付着しているため、と渡邉さんより説明あり。「そこがまたステキだなと思います」と微笑む渡邉さん。
・まさかと思っていましたが、葵の紋が入った緑の布の下に児手柏と燭台切光忠が鎮座していました・・・。

・前の列から一人ずつ壇上に上がって、児手柏・燭台切光忠を見せていただく。
・ケースもなく、至近距離から撮影が可能。
・参加者のみなさん刀を眺めた後、数枚写真を撮ったあとはすぐ次の方に譲り、 大変スムーズで静か。(ただし無言の興奮で熱気がすごい)
・「大変貴重なものを見せていただいてとても嬉しい」とミュージアムの方に直接お礼を言われる方多数。また堀さんに質問をしてらっしゃる方も。



【児手柏】

(iphoneなので画質はこれが限界です。クリックすると大きな写真になります)







 【燭台切光忠】



(下の写真はコントラストを少し強く加工してあります)









(以下、管理人の感想です)
わたしがトークイベントに申し込んだ時点ではまだ光忠の現物展示は告知がなく、その後ブログにて発表されたので、まさか実物をあんな至近距離で見せていただけるとは思わず、iphoneを構える手が震えました。

焼けて刃文などはわからなくなっているし、刀として、美術品としては価値がないのかもしれませんが、細身の黒い刀身は力強く、溶けたハバキの金色が映えてとても美しかったです。惚れ惚れする素敵な刀でした。本当に「燭台切光忠」そのもので、思わず涙ぐんでしまった・・・。

堀さんのお話を伺った後でしたので、戦中の供出命令を拒否した事の他にも、きっと保存し続けるためには大変な苦労があっただろうと思い、よく今まで何百年も保存し続けてくださったと、また、この貴重なものを公開し撮影も許可してくださって本当にありがたいと胸がいっぱいになりました。



【『劒槍秘録』についての質問】

ちょうど『劒槍秘録』について調べていたところで、資料のコピーも持参してきたので、写真を撮った後、堀さんに質問してもよろしいですかとお尋ねすると、快く受けてくださいました。

『劒槍秘録』や「政宗記」(成実記)に記載されている、秀吉から政宗に下賜された「光忠」について、この「光忠」が燭台切であることが読み取れる部分、もしくはその事実を補完する資料はありますか、とお尋ねしたところ、
「まだすべての資料を調べたわけではないのではっきりしたことは言えないが、この記述部分だけでは、確かにこの光忠が燭台切であるかどうかはわからない」とのこと。

「政宗記」の、下賜した翌日になって秀吉が政宗を盗人呼ばわりするエピソードに関しても、政宗の家臣である成実がなぜそんなことを書いたのか(不敬に当たらないのか?)という疑問があったので、このエピソード自体があまり信憑性がないのかもねえ、というお話しをしていました。

ただ、秀吉が刀を下賜することはよくあったし記録にも残っているので、秀吉→政宗へ刀を譲ったというのは不自然ではないし十分あり得るとのこと。



【トークイベントの印象・感想】


徳川ミュージアムの方が大変好印象でした。特に学芸員の渡邉さん、研究員の堀さんは「所蔵品について興味を持っていただけて大変嬉しい」「今回注目されたことで、改めて所蔵品について見直すきっかけになった」「きっと(燭台切光忠については)みなさんのほうがお詳しいと思いますが」と言うようなことを何度も口にされていて、わたしたち刀剣ファンの希望や熱意を尊重してくださっている印象が強かったです。

ゲームやアニメから興味を持つ人が増えてブームになると、マスコミに「歴女」だとかよくわからないカテゴライズをされたり面白半分に誇張された記事を書かれたりして、その作品やキャラクターを好きな気持ちを粗雑に扱われたような気がして悲しい思いをすることがあるのですが、今回、ミュージアムの方はゲームから入ったファンが多数いるということを認識した上で、わたしたちが燭台切光忠について知りたい、という気持ちに敬意を払ってくださっていると感じました。

参加者の方は若い女性が9割でしたが、みなさん熱心にメモを取られていて、写真を撮るときも出来るだけスムーズに進むよう譲り合っていましたし、「貴重なものを見せていただいてとても嬉しい」とミュージアムの方に直接お礼を言っている方もたくさんいて、終始とてもいい雰囲気のイベントでした。
京都からの参加なので少し遠かったですが、本当に、参加出来てよかったなあとしみじみしています。

徳川ミュージアムは東日本大震災でも被災しており、財団の活動や文化財の修復費への寄附を募っています。わたしも出来ることはしたいなと思って寄附申込書をいただいてきました。
 被災した刀の再刃についての検討や、所蔵する他の刀剣についても調査・研究が進められているそうなので、今後も燭台切光忠をはじめとする刀剣の展示の機会があるかもしれないと思うととても楽しみです。





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